【社労士解説】利用率わずか1.5%の「デジタル給与」—普及を阻む規制の壁と法改正の行方、企業が備えるべき実務の要点
- 坂の上社労士事務所

- 5月25日
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2023年4月に解禁されたデジタルマネーによる給与支払い、いわゆる「デジタル給与」ですが、解禁から数年が経過した現在も、その利用率は低迷しています。厚生労働省が労働者1万人を対象に実施した調査(1〜2月)によれば、デジタルマネーで給与を受け取っている人はわずか1.5%にとどまっています。
日常生活においてQRコードやバーコードによる決済サービスを利用していると回答した割合は59.1%に上り、キャッシュレス決済自体は社会に広く浸透しています。しかし、こと「賃金の受け取り手段」としての普及は全く進んでいないのが実態です。
本稿では、なぜデジタル給与が普及しないのか、そして政府が検討を進める規制緩和によって今後どのような変化が起きるのかを、労働法務と人事労務システムの専門家としての視点から深く解説します。また、多様化する働き方の中で、企業がどのようにこの制度と向き合い、実務上の課題を解決していくべきかについても展望を示します。次世代の人事労務体制を構築しようとする経営者・人事担当者にとって、今後の動向を読み解くための一助となれば幸いです。
1. デジタル給与の現状
現在のデジタル給与を取り巻く状況を、労働者、資金移動業者、そして政策・制度の3つの視点から要約します。
①労働者視点:キャッシュレス決済の日常化と「給与受け取り」のギャップ
給与の受け取り方法は、預貯金口座への支払いが85.3%と圧倒的多数を占めています。次いで現金手渡しが8.1%、証券総合口座への支払いが1.6%と続きます。
デジタル払いについて「今後利用したい」と回答した層は13.8%存在しており、一定の潜在的ニーズは確認できます。
一方で普及を阻む労働者側の懸念としては、「安全性に不安がある」が32.8%、「現金での引き落としや振り込みが必要な支払いがある」が29.3%と高く、これが利用への心理的・実務的なハードルとなっています。
②事業者視点:高すぎる参入ハードルと重い実務負担
2023年4月の解禁以降、厚生労働大臣の指定を受け、実際に参入した資金移動業者はPayPay、リクルートMUFGビジネス、楽天Edy、auペイメントの4社のみにとどまっています。
国内には80社を超える資金移動業者が存在しますが、NTTドコモやメルペイなど多くの有力事業者がいまだ未指定の状態です。
参入が進まない最大の原因は、労働者保護を目的とした極めて厳しい指定要件にあります。
③政策・制度視点:労働者保護と社会実装推進のジレンマ
政府は2025年6月に閣議決定した規制改革実施計画において、「労働者の賃金の安全性・確実性を担保しつつデジタル払いの社会実装を実効的に促進する」とし、要件見直しの要否を検討すべきであると明記しました。
現在、労働政策審議会の労働条件分科会などにおいて、具体的な要件緩和に向けた議論が活発化しており、安全性維持を強く主張する労働側(連合)と、規制緩和を求める事業者・政府側との間で調整が続いています。
2. 法律・制度の仕組みと改正の経緯
労働基準法第24条は、賃金の「通貨払い(現金払い)の原則」を定めています。銀行口座等への振り込みは、あくまでこの原則に対する「例外」として、労働者の同意を得た場合にのみ認められてきました。2023年4月の法改正は、この例外の選択肢として、新たに厚生労働大臣が指定する資金移動業者のアカウント(デジタルマネー)を加えたものです。
しかし、賃金は労働者の生活の糧であるため、銀行と同等レベルの安全性が資金移動業者にも求められました。その結果、以下のような非常に厳しい要件が設定されました。
【現在の主な指定要件(抜粋)】
口座の受け入れ上限額を100万円以下に設定すること。
代替口座(残高が上限を超えた場合に超過分を自動的に入金する口座)は日本国内で開設された預貯金口座に限定(外国にある銀行口座は認めない)。
資金移動業者の破産時には、6営業日以内に口座残高を全額弁済する仕組み(保証機関との契約など)を構築すること。
ATM等を利用し、1円単位で現金化を可能にすること。
「プライバシーマーク(Pマーク)」や「情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS)認証」など、個人情報の取り扱いに関する認証を取得すること。
これらの要件は労働者を保護する上で極めて重要ですが、結果としてシステムの開発・維持コストを跳ね上げ、新規参入を妨げる大きな障壁となってしまいました。
3. 政府の狙いと今後の動向(規制緩和の焦点)
利用率1.5%という低迷を受け、厚生労働省は参入要件の緩和検討に入っています。その焦点は主に以下の4点に集約されます。
①破産時の全額弁済期限の緩和
現在のガイドラインでは、業者が破産した場合、6営業日以内に全額を労働者に返還する体制の構築が求められています。しかし、事業者側からはこの体制構築の負担が重すぎるという声が上がっています。13日に開催された労働政策審議会では期限緩和の是非が議論されましたが、連合側は「安全性・確実性を担保するための重要かつ不可欠な要件」として期限の維持を強く求めており、着地点の模索が続いています。
②代替口座の要件緩和(外国口座の解禁)
現在、アカウント上限額を超えた資金の退避先となる代替口座は、国内の預貯金口座に限定されています。これを、外国人が母国に持つ銀行口座への送金なども認める案が検討されています。これが実現すれば、日本の銀行口座を持たない入国直後の外国人労働者らが、即座にデジタル払いを利用できるようになり、労働力確保の観点からも大きな前進となります。
③認証取得要件および現金化要件の撤廃・見直し
PマークやISMS認証の取得要件、さらには「1円単位で現金化できる仕組み」といった要件についても、撤廃が検討課題に上がっています。過剰なスペック要求を適正化することで、より多くのIT企業や決済事業者が参入しやすい環境を整える狙いがあります。
④ 多様な働き方への対応とグローバルな潮流
米国では、銀行口座を持たなくても賃金を受け取れるプリペイド式の「ペイロールカード」が広く普及しています。日本においても、単発・短時間で働くギグワークや副業など、働き方の多様化が急速に進んでいます。給与が即時に、かつ手数料を抑えて手元に入る仕組みは、こうした新しい働き方をする層にとって非常に魅力的な選択肢であり、賃金受け取りの選択肢を増やす必要性は高まっています。
4. 企業が備えるべき実務上の注意点と課題解決
法改正や規制緩和が進む中で、企業、特に人事労務担当者はどのような準備をし、実務に落とし込んでいくべきでしょうか。単に「新しい支払い方法が増えた」と捉えるのではなく、「従業員ファースト(Employee First)」の視点でバックオフィス業務をアップデートする契機と捉えるべきです。
①労使協定の締結と就業規則の改定
デジタル給与を導入するためには、まず事業場の過半数労働組合または過半数代表者との間で労使協定を締結する必要があります。また、就業規則の賃金規程において、支払方法の選択肢としてデジタル払いを追記する改定作業が必須となります。
②個別同意の取得とシステム上の管理
労働基準法の原則に基づき、デジタル給与は労働者からの「個別の同意」を得た場合にのみ実施可能です。企業側から強制することは絶対にできません。また、誰がどの決済サービスを利用し、代替口座はどこに設定されているのかを給与計算システム上で正確にマスタ管理する必要があります。
③クラウド給与計算ソフトとAPI連携の活用
実務上、支払い先が銀行口座とデジタルマネーアカウントに分散することは、経理・人事部門の振込業務の煩雑化(=摩擦)を招くリスクがあります。これを解決するためには、マネーフォワードクラウドなどの最新のクラウド型給与計算ソフトを導入し、給与計算から振込データの作成、さらにはAPIを通じた自動送金までを一気通貫で自動化するITシステムの構築が不可欠です。属人的な手作業によるミスを防ぎ、業務効率を最大化するデジタルトランスフォーメーション(DX)が鍵となります。
④従業員への周知と金融リテラシー教育
企業や働く人に対する制度の周知も大きな課題です。デジタル給与は、日々の少額決済には便利ですが、家賃や公共料金の引き落としには適さない場合も多いです。企業は導入にあたり、従業員に対してメリット・デメリットを正しく説明し、自身のライフスタイルに合った選択ができるようサポートすることが求められます。
5. デジタル給与がもたらす人事労務の未来
現在は利用率1.5%と停滞しているデジタル給与ですが、安全性と使いやすさを両立する要件見直しが進めば、普及のペースは確実に加速するでしょう。特に、即時払いが求められるギグワーカー、銀行口座開設にハードルがある外国人労働者、そしてスマートフォン決済を中心に生活圏を構築している若年層を中心に、利用が拡大していくと予測されます。
企業にとっては、給与支払い手段の多様化に対応できる柔軟な人事労務基盤(HRテクノロジー)を持っているかどうかが、今後の採用競争力を左右する一つの要素になり得ます。法改正の動向を先読みし、最新のITクラウドソリューションを活用して社内のバックオフィスを自動化・効率化しておくことが、結果として従業員満足度の向上と企業成長に直結するのです。
労働者保護という法の根本理念を守りつつ、いかにして新しいテクノロジーを社会実装していくか。政府の規制改革の行方と、それに伴う新たなビジネスモデルの誕生に、引き続き強い関心を持って注視していく必要があります。
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