【社労士解説】毎月勤労統計から読み解く賃金構造の激変〜報道が伝えない「3つの重要指標」と注視すべき統計の動向〜
- 坂の上社労士事務所

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厚生労働省が2026(令和8)年6月5日に発表した「毎月勤労統計調査 2026(令和8)年4月分結果速報」において、物価の変動を反映させた実質賃金が前年同月比1.9%増となり、4か月連続の増加を示したことが大きな話題となっています。基本給を反映する所定内給与も前年同月比3.4%増の27万7916円となり、1992(平成4)年10月以来、33年6か月ぶりの高水準を維持しています。
しかし、これらの表面的な総計数値だけで労働市場の現状を判断することは極めて危険です。情報媒体の取材対応や企業の経営判断においては、「何を行うべきか」という対策論に終始するのではなく、統計の背後にあるどの数値の動きに警戒し、どのような動向を注視すべきかを正確に把握することが求められます。
本記事では、特定社会保険労務士の専門的な知見から、今回の公表資料を詳細に解読し、実務家が真に注目すべき「3つの視点」と「注視すべき具体的指標」について深く解説します。
1.名目賃金上昇の持続性を図る指標〜基本給の底上げと企業物価指数の危険な均衡〜
第一に注視すべき動向は、名目賃金の伸びを構成する内訳の数値と、川上で発生している物価上昇の波及度合いです。
今回の統計では、1人平均の現金給与総額が31万2425円(3.5%増)となり、定期給与にあたる「きまって支給する給与」が29万9096円(3.4%増)を記録しました。この高い伸びを牽引しているのが、所定内給与の3.4%増という数値です。厚生労働省の解説にもある通り、賃金の伸び率は「基本給の底上げ」の影響を強く受け、これが一般労働者の所定内給与に顕著に反映されています。
しかし、実質賃金を1.9%の増加にとどめている背景には、政府による公的な物価抑制策という人工的な要因があることを忘れてはなりません。実質化の計算に用いられる消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)は1.5%の上昇に抑えられていますが、これは政府の自動車用燃料代補助金などにより、動力・光熱費全体が3.9%下落したことに起因します。
ここで最も警戒すべき統計数値は、同じ4月に前年同月比4.9%上昇を記録した「企業物価指数」です。
警戒すべき数値と動向
「企業物価指数(4.9%上昇)」と「消費者物価指数(1.5%上昇)」の乖離
企業間の取引価格が約5%も上昇しているにもかかわらず、消費者に届く段階では補助金等で1.5%に抑えられている状態です。この乖離が縮まる、すなわち企業が価格転嫁を本格化させたとき、消費者物価指数は急上昇します。
「飲食料品の値上げ品目数(7月予定:2269品目)」
民間調査機関の統計では、7月の値上げ予定数が6月の2倍以上に膨れ上がっています。この数値は、秋口以降の消費者物価指数を確実に押し上げる要因となります。
「特別に支払われた給与(7.4%増)」の持続性
今回の統計では賞与や一時金を含む数値が7.4%増と高い伸びを示していますが、これは一時的な性質のものです。物品の調達費用高騰によって企業の収益力が圧迫された場合、この数値は真っ先に減少へと転じます。
国が講じている動力・光熱費への補助金効果は一時的な応急処置に過ぎません。私たちが注視すべきは、政府の物価抑制策が終了、あるいは縮小した際に、所定内給与の3.4%増という数値が、再燃する物価上昇率を上回り続けられるかという点です。川上の企業物価指数が4.9%で推移している以上、名目賃金が現在の水準にとどまれば、実質賃金は容易に再び減少へ反転するという動向を読み取る必要があります。
2.短時間労働市場の歪みを示す指標〜時間当たり給与と労働時間の相反する動き〜
第二に注視すべきは、短時間労働者の統計に見られる極めて顕著な矛盾した動きです。ここには制度改正の経緯と政府の狙いが複雑に絡み合っています。
統計結果によると、短時間労働者の「時間当たり給与(所定内給与を所定内労働時間で除したもの)」は前年同月比4.9%増の1436円と、非常に高い伸びを記録しています。その一方で、短時間労働者の「総実労働時間」は前年同月比2.1%減の79.2時間へと大きく減少しています。
この「時給は大幅に上がっているのに、働く時間は著しく減っている」という統計の動向は、これまでの社会保障制度および税制の改正が引き起こしている構造的な就労調整の実態を証明しています。
政府の狙いは、短時間労働者への社会保険適用を拡大し、社会保障の財政基盤を安定させることにありました。その経緯として、2025年の税制改正による「103万円の壁」の160万円への緩和や、長年の課題であった「106万円の社会保険適用の壁」が2026年3月末をもって事実上撤廃されるなど、国は就労抑制を防ぐための法整備を進めてきました。
しかし、統計の数値が示す現実は異なります。時給が4.9%という高い割合で上昇した結果、短時間労働者は労働時間を減らさなければ、自らが望まない社会保険の加入要件(週20時間以上など)や、世帯内の他の扶養基準に達してしまうという事態に直面しています。壁が撤廃・緩和されたとはいえ、手取り額の逆転を懸念する心理的な抵抗や、企業側の受け入れ体制の未整備という時間のずれがあり、結果として労働時間を2.1%減らすことで調整している動向が浮き彫りになっています。
警戒すべき数値と動向
短時間労働者の「時間当たり給与(4.9%増)」と「総実労働時間(2.1%減)」の相関
時給の上昇率に対して、労働時間の減少割合がどの程度連動しているかを追う必要があります。労働時間の減少が止まらない場合、現場の人手不足は数値以上に深刻化します。
「短時間労働者比率(31.19%、前年同月差0.15上昇)」
労働者総数に占める短時間労働者の割合が依然として上昇傾向にあります。短時間労働者への依存度が高まる中で労働時間が減少しているという動向は、特に接客業や小売り業における総労働投入量の不足を意味します。
産業別「飲食サービス業等」の現金給与総額(1.8%増)
短時間労働者が多くを占めるこの産業では、時給が上がっているにもかかわらず、給与総額の伸びが1.8%と調査産業計(3.5%増)に比べて低水準にとどまっています。これは労働時間の短縮が給与総額を押し下げている決定的な証拠です。
情報媒体が注目すべきは、政府が「壁の撤廃」を推進したにもかかわらず、統計上は労働時間の減少という形で就労抑制が継続しているという事実です。この数値の動向を無視して一律の賃上げのみを評価することは、実態を見誤ることになります。
3.市場の分断と統計の信頼性を測る指標〜産業間・規模別の格差と「共通事業所」の乖離〜
第三に、統計の構造そのものに目を向け、市場がどのように二極化しているか、そして統計数値の「断層」をどのように見極めるべきかという点に注目する必要があります。毎月勤労統計を深く解読する上で、ここが最も専門的な知見を要する部分です。
今回の資料では、事業所の規模や産業によって賃金の伸びに巨大な開きがあることが示されています。
規模別の現金給与総額の伸び
規模5人以上の事業所では3.5%増であるのに対し、規模30人以上の事業所では4.1%増と、規模が大きいほど賃金が大きく上昇している傾向が明白です。
産業別の格差
現金給与総額の伸びを見ると、「金融業,保険業」が11.2%増、「複合サービス事業」が8.3%増、「運輸業,郵便業」が7.2%増と驚異的な数値を記録している一方、「生活関連サービス等」は0.6%増、「鉱業,採石業等」は1.1%増、「医療,福祉」は1.4%増と、産業間での分断が極めて激しくなっています。
さらに、統計の信頼性や実態を正確に把握するために必ず注視しなければならないのが、「共通事業所による前年同月比」との比較、および「標本の部分入替えに伴う断層」の数値です。
毎月勤労統計調査では、2026年1月に調査対象事業所の部分入替え(標本の更新)を行っています。この入替え前後の数値を比較したところ、現金給与総額で「1582円減(0.5%減)」、きまって支給する給与で「801円減(0.3%減)」の「断層」が生じていることが利用上の注意に明記されています。つまり、今回の速報値として出ている3.5%増という数値には、この対象事業所の入れ替えによる統計上の歪みが含まれていることになります。
これを取り除き、同一の事業所で継続してどれだけ賃金が上がったかを見るための指標が「共通事業所による参考値」です。共通事業所集計による4月の結果を見ると、就業形態計の現金給与総額は「3.1%増」、所定内給与は「2.8%増」となっています。
警戒すべき数値と動向
公表速報値(3.5%増)と共通事業所参考値(3.1%増)の「0.4%の数値の乖離」
公表されている全体の数値よりも、実際に同じ企業を追跡した数値の方が伸びが低いという動向に注意が必要です。これは、新しく調査対象となった事業所の賃金水準が見かけ上の数値を押し上げている可能性を示唆しており、既存の中小企業の現場の実態は、速報値ほど楽観的ではないことを意味します。
「一般労働者(3.9%増)」と「短時間労働者(3.8%増)」の総額の開き
共通事業所比較では、短時間労働者の給与総額の伸びは3.8%増となっていますが、就業形態別の格差が今後どのように推移するか、特に正規雇用と非正規雇用の処遇格差の動向に注目する必要があります。
労働異動率における「入職率(5.29%)」と「離職率(4.14%)」の推移
前年差で入職率は0.02上昇、離職率は0.10の上昇となっています。特に「教育,学習支援業」のように離職率が11.90%と極端に高い産業や、「金融業,保険業」の離職率7.30%(前年差1.21上昇)といった数値の動向は、賃金の伸びが高くとも労働力の定着に深刻な課題を抱えていることを示しています。
統計を引用する際には、単に「3.5%上がった」と述べるのではなく、同一事業所を比較した「3.1%増」という実質的な数値の動きを注視し、標本更新による影響を排除した真の景気動向を見極める姿勢が、高度な専門家として情報媒体の目に留まるための鍵となります。
実務家が今後追い続けるべき「注視指標」
2026年4月の毎月勤労統計調査の速報値は、一見すると実質賃金の増加維持という明るい動向を示しているように見えます。しかし、その内実を精査すると、私たちが真に警戒し、注視すべき指標が明確になります。
今後、日本の労働市場および全体経済の先行きを占う上で、注意深く追うべきは以下の3つの動向です。
「企業物価指数(4.9%上昇)」の消費者物価への転嫁の度合い
補助金という公的な後押しが切れた後に、名目賃金の伸びが物価上昇を吸収できるかどうかの推移。
短時間労働者の「時間当たり給与」上昇に伴う「労働時間」の更なる減少傾向
社会保険の壁撤廃という制度改正に対し、現場が就労抑制という形で反応し続けるかどうかの数値的推移。
公表値と「共通事業所参考値」の乖離幅の推移
統計上の断層に惑わされず、同一企業における本当の賃上げ体力が維持されているかを測るための比較。
これらの数値がどのように変化していくかを定点観測することこそが、今後の労務管理の高度化、ひいては全体経済の正確な見通しを立てるために不可欠な手法となります。
*毎月勤労統計調査 2026(令和8)年4月分結果速報(厚生労働省)
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